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ユリウス・フチーク (作曲家) : ミニ英和和英辞書
ユリウス・フチーク (作曲家)[いえ, け]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作曲 : [さっきょく]
  1. (n,vs) composition 2. setting (of music) 
作曲家 : [さっきょくか]
 (n) composer
: [きょく, くせ]
 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

ユリウス・フチーク (作曲家) : ウィキペディア日本語版
ユリウス・フチーク (作曲家)[いえ, け]

ユリウス・アルノシュト・ヴィレーム・フチークJulius Arnošt Vilém Fučík, ドイツ語 Julius Ernst Wilhelm Fučík, 1872年6月18日 プラハ - 1916年9月15日 プラハ)は、チェコ作曲家軍楽隊指揮者
生涯の大半を軍隊の吹奏楽で指揮者として過ごした。フチークは多産な作曲家で、300曲以上の行進曲ポルカワルツを作曲として名を馳せた。作品のほとんどが軍楽隊のために作曲されていることから、時に「ボヘミアスーザ」とも呼ばれる。
現在でも、チェコではフチークの行進曲が愛国的な楽曲として演奏されている。しかしながら彼の名声を世界的なものにしているのは、最も有名な《剣闘士の入場 Vjezd gladiátorů 》が世界各地のサーカスで、ピエロ登場のテーマ曲として用いられているからに他ならない。
== 生涯 ==
オーストリア=ハンガリー二重帝国治下のボヘミアに生まれる。学生時代はファゴットヴァイオリンなど、様々な楽器を弾きこなし、後にドヴォルザークに作曲を師事した。
1891年にオーストリア=ハンガリー第49番師団に軍楽隊員として入団。当初はドナウ川沿いの町クレムスで、ヨーゼフ・フランツ・ワーグナーの指揮のもと演奏を続けたが、後にウィーンの軍楽隊に入った。1895年には軍隊を離れ、プラハはドイツ劇場の第2ファゴット奏者の地位に就任した。1年後に、プラハ市管弦楽団の首席指揮者や、クロアチアシサク市のダニツァ合唱団の指揮者に就いた。この間にフチークは、たくさんの室内楽曲、なかでもクラリネットファゴットのための小品を作曲した。
1897年サラエヴォ第86師団の楽隊指揮者として入団、その直後に、最も有名な作品《剣闘士の入場''Einzug der Gladiatoren''》を作曲した。原題は《半音階的大行進曲''Grande Marche Chromatique''》だったのだが、フチークはローマ帝国の歴史に興味があり、曲名を変更した。また、カナダの作曲家・編曲家であるLouis Philippe Laurendeauが、小編成のバンドのために編曲し''Thunder and Blazes''(雷鳴と稲光)というタイトルで出版したところ、サーカス公演においても演奏されるようになり、人気が出た。今でも世界的に、サーカス公演における道化師の登場に使われており、他にも「スクリーマー ''Screamer''」などの愛称でも親しまれている。
フチークの楽隊は1890年ブダペストに配転すると、フチークは自作を演奏してくれる楽隊を他にもいくつか見つけたが、より注目を浴びるには、多くのライバルに立ち向かわなければならなかった。フチークはより多くの演奏家を任意に使うことができるようになってから、管弦楽曲の編曲を試みるようになった。
フチークは1909年に再びボヘミアに戻り、テレジン王立第92番師団の楽隊に入隊した。当時その楽隊は、オーストリア=ハンガリー二重帝国で最も優れた軍楽隊であった。フチークはこの楽団と共にプラハベルリンに演奏旅行を行い、総計1万人以上の聴衆を集めた。
フチークは1913年に結婚してベルリンに居を構え、そこで自前の楽隊と楽譜出版社を結成して、自分の作品を売り出そうとした。だが彼の人生は第一次世界大戦の勃発と共に曲がり角に来ていた。戦時中の貧窮のもとで商売は頓挫し、健康面も損なわれ、1916年に急病を患い、プラハに戻るや否や急死してしまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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